中津城下町
中津城下町の祖形ができたのは細川の時代で、14町が形成されたといわれてきました。
しかし、近年の調査で、黒田時代にある程度の町割りがなされ、細川以降の町割りは、その区画を踏襲したものであることがわかりました。
城下町は小笠原期に整備・拡張され、奥平期へとひきつがれました。また細川氏が城内にひいた水道(御水道)は、小笠原期には城下町へと拡張されました。
城下町は軍事的な防備を考えてつくられています。中津では、城の玄関口である大手門前に商人の町(京町・姫路町・片端町など)、下級武士の組屋敷は城の東南の外郭内(鷹匠町・中間町・留守居町など)、北西の郭外(角木町・浦町など)、西南の郭外(古金谷・森ノ丁など)におかれ城下町の守備を固めました。
また外郭沿いには神社・仏閣が配され(寺町など)、いざ戦闘のときには広い境内、大きな建物を利用できるようにしました。中堀・外堀沿いにはおかこい山とよばれる土塁をめぐらせ、城下町を守っていました。
今でも当時の地名がそのまま使用されており、直線的な城下町の町割りに、江戸時代のおもかげをたどることができます。
現在も引き継がれる町名
旧中津城下町は、江戸時代に使われていた町名が現在でも残っています。
特に東側に位置している「姫路町」、「京町」、「博多町(現在の古博多町)」は、黒田時代から町名がすでに存在していたようです。
黒田如水縄張図
京町の提灯
当時の城下町屋の中心でした。黒田氏が中津に入封した際に姫路の商人たちが来てつくった町ということに由来しています。
【京町】
黒田氏が中津に入封した際、京町中ノの町屋・伊予屋を本陣として中津城をつくったという説があり、京町は古くから存在していたと考えられます。
京都からの移住者がいたことが由来とされており、その町名は黒田時代を描いたとされる「黒田如水縄張図」にも記されています。
【古博多町・新博多町】
黒田時代(他の説あり)に博多の商人が移住して店を構えたので「博多町」と呼ばれました。京町とともに「黒田如水縄張図」に記されています。元和6年(1620)細川忠興の「町割令」により、町の南側の堀を埋めて「新博多町」が作られ、「博多町」は「古博多町」と呼ばれるようになりました。